Misakiの曼荼羅ブログ

人間と自然、日本と世界、地球と地域、女と男などの臨界点を見据えながら、日々の出来事を綴るブログ

なぜ南方熊楠に創造性を見いだすのか?

 お久しぶり。美咲です。今日は南方熊楠(みなかた・くまぐす)について少し語ってみたいと思います。前回は”創造性”について書きました。私にとって今もっともクリエイティブに思える人は南方熊楠です。

 なぜ熊楠に心惹かれ、彼に創造性を見いだすのか。結論を言えば、熊楠の思想や仕事が前回定義した創造性の要件を満たすからです。心理学者のフィリップ・ヴァーノンの言う創造性ー「考えの新奇な組み合わせ、ないしは異常な結合。そしてそれが社会的ないし理論的な価値を持つか、他者に対して感情的な衝撃を与えるものでなければならない」の要件を満たしているのです。

 熊楠は、民俗学と粘菌学。自発的、自律的な研究と強制的他律的な教育。海外漂白(グローバル)と和歌山定住(ローカル)。大乗仏教と近代自然科学。学問と社会的実践。これら異質なものの対立と新しい結びつきを強烈な意思を持って創り出しました。*1

 熊楠のことは調べれば調べるほど深すぎて、彼についてのコラムを書こうと思えば思うほど、実はなかなか書けなくなりました。中沢新一さんのような一流の学者が熊楠についての著書「森のバロック」を10年かけて執筆されたくらいですから、私のような者が表面だけかすりとって何か彼について分かったようなコトを書くのは失礼のように思えたわけです。でも、まぁ、やっぱり好きに書いてみよう、熊楠、許してねと、自由気ままに書かせていただこうと思い直しました(笑)。

さて、あなたは熊楠をごぞんじですか?いっとき1990年代初めでしたでしょうか、熊楠ブームがありました。芝居や小説や漫画やテレビなど、あらゆる舞台に主役として登場しました。水木しげるの漫画「猫楠」など面白かったですよね。

巨人・南方熊楠(みなかた・くまぐす)は何者か?

  和歌山県生まれの(みなかた・くまぐす 1867-1941)は東京での学生生活の後に渡米します。さらにイギリスに渡って大英博物館にはいり、多くのノートや論文を書きました。帰国後はずっと生涯を和歌山・田辺で過ごしましたが、世界的な大学者として名を知られます。民俗学者博物学者、自然科学者であり、18言語をも理解できました。粘菌の研究や「南方マンダラ」という独自の思想を編み出したことでも知られています。数々のユニークな奇行の逸話も残しています。

 ところで3月4日に人類学者の中沢新一さんが南方熊楠章を受賞されたニュースが報道されたので、熊楠の名を久々に聞いたという方も多いでしょう。時代の転換期に生きた巨人・南方熊楠は奇行などの逸話などがとりざたされやすいですが、彼には理論と思想があり、私は彼ほど創造的な人物は今の日本にはいないのではないかと思います。(いたら教えて!)下の写真の方が熊楠。写真が結構多く残っている事から、写真を撮ってもらうことが好きだったようです。なんともハンサムでお茶目な感じですね。とても魅力的な風貌ですが、熊楠は中沢新一によると女嫌いだったそうで、生涯奥さんとしか女性と関係を持った事がなかったそうです。中沢新一いわく、独身時代には美青年とのプラトニックな恋にも落ちた精神的ゲイだったらしいです。

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南方熊楠の5つの特徴

 ここで南方熊楠(みなかた・くまぐす 1867-1941)の生涯と仕事の特徴を述べてみましょう。鶴見和子によると、熊楠の特徴はいくつか挙げられます。

1。熊楠は柳田国男とともに、日本の民俗学の創始者であること。柳田との違いは、熊楠は人文・社会科学と自然科学の接点で民俗学に取り組んだことです。社会科学では、民俗学、民俗誌、人類学、社会学歴史学、心理学、宗教学の分野にわたりました。自然科学では、植物学、生物学、動物学におよびました。特に粘菌の研究に力を注ぎました。基礎科学としての数学と論理学にも精通したそうです。熊楠が「歩く百科事典」と言われたのも納得です。下の写真が粘菌です。ちなみに中沢新一によると、粘菌は”生物学的なゲイ”だそうです*2。清澄な植物の世界に異様な動物のにおいを運び込んだ生物が粘菌で、分類や研究するにはてごわい生物でした。

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2。二つ目の特徴として、熊楠は学校嫌いの大学者であったこと。彼の百科全書的な学問分野の習得は大学などの研究機関ではなく、主として図書館や個人やお寺の蔵書を借り出して本を読んで筆写する方法や野外の観察と採集によりました。近代にはまれな中卒にして、大学者になった人物です。

3。三つ目の特徴。熊楠の生涯には、海外を漂白する時期と故郷の和歌山・田辺での定住の時期がはっきりと分かれていること。18歳でアメリカに渡米し、学校に入学をするものの退学。25歳からは曲馬団に加わって、キューバベネズエラ、ジャマイカ等などを巡歴します。そこでは動植物の採集を行いました。それからイギリス・ロンドンに渡り足掛け9年滞在します。帰国してからは、和歌山・田辺に住み着いて、イギリスの学術誌「ネイチャー」などに英文論文の寄稿をずっと続けます。本当は、インドへ行って仏教の僧となり、アラブ諸国へ行ってイスラーム導師となり、自由人として世界を漂白する夢を持っていましたが、長男・熊弥の発病により田辺にとどまり責任を全うします。世界を自由に渡り歩く夢を挫折することにはなりましたが、暮らしは辺境の田辺に深く根ざし、思想は世界に向かって発信されていったのです。まさに「グローバルに考え、ローカルに行動した」男でした。

4。四つ目の特徴。西洋の受け売りはしなかったということです。また、彼は父母の影響により、真言密教の教えを情念として身につけていました。そこにロンドンで出会った民俗学者や人類学者の先駆的学者の理論形成を肌で感じ、その方法論と情念として持っていた大乗仏教の教えを組み合わせ、格闘させ、「南方マンダラ」という新しく独創的な思想を創りだしました。

5。五つ目の特徴として、熊楠は書斎に閉じこもるだけの学者ではなかったということ。命がけで山野に植物採集にでかけました。また、エコロジーの思想に基づき、神社合祀反対運動に取り組みます。これは日本近代の先駆的環境保存運動です。エコロジーの概念を日本に持ち込んだのは、熊楠ではないでしょうか。

 

熊楠の深くて広い魅力 

 彼は、創造的な生き方と仕事をしました。熊楠はさまざまな人を惹き付ける広大で深い魅力をもっていました。現代の日本人の欠けているものを熊楠に見いだす人が増えてきたのです。

 若い頃は誰の言う事もガンとして聞きませんでした。自分の思い通りの生活、すなわち金のためには働かないで自分の好きな道をばく進する生き方を熊楠は貫きます。晩年、お金のことで彼は苦しむわけですが、生活のために金を稼ぐ仕事をしなかった熊楠は、好きな道や学問に没頭できたということで大変幸せな人ではなかったでしょうか。

 熊楠は、深い森の中にあるとき、顕微鏡下の粘菌の生態を観察しているとき、しばしば宇宙的な放心状態に陥ってたと中沢新一氏は述べています*3そんなときに彼の中にわき上がってきたさまざまな心象、ひらめき、論理が南方マンダラと呼ばれる思想モデルに結晶したのです。

 

ずいぶん簡単に熊楠の特徴を取りまとめましたが、ここで言えることは彼は”グローカル”な大学者であり、実践者であり、エコロジーを日本にまず取り入れた人でした。対立する考えを組み合わせあらたな思想を創造したクリエイティブな文士であったということです。名利にうとく、金を稼ぐために働かなかった熊楠。好きな道をばく進したその生きざまは何とも魅力的に映るのです。

「南方マンダラ」についてはまた後日お話したいと思います。

では、またね♪

*1:1「南方熊楠・萃点の思想」鶴見和子著p12

*2:2「森のバロック中沢新一

*3:2「森のバロック中沢新一p4