いまなぜ南方熊楠なのか
美咲です。
昔、白洲正子が「いまなぜ青山二郎なのか」という本を執筆されました。
ですから「いまなぜ南方熊楠なのか」というタイトルはブログの一記事としては、テーマがデカすぎるとは思います。それに特にいま大ブームになっているわけでもない。でもまぁ、いいじゃないですか。
今日はずっとなぜわたしがなぜこんなに南方熊楠のことが気になるのか、すこし綴っておきたいと思います。
未来のパラダイム転換に向けて
いまなぜ南方熊楠なのか。
ひとつ言えることは、わたしたちは今新たな時代を迎えようとしているということです。
36年前トフラーが「第三の波」(1980年)で農耕社会、産業社会が終わって、情報化社会の到来を告げたのは画期的でした。しかしその情報化社会はいまやもはや最終段階に入っています。ピーター・ドラッカーのいう”ナレッジ・ワーカー”(知的労働者)の持っている価値が考えられていた以上に速いスピードでコンピュータやロボットにとって代わられはじめていくと言われています。たとえ、コンピュータ、インターネット、ロボットに仕事を吸収されなくてもインドや中国などに外注されていくとも言われているのです。
では、わたしたちは新しい世界で生き抜くには、そして幸せになるためにはどうすれば良いのでしょうか。
これらの疑問に対するヒントを南方熊楠の思想のなかに見つけることができる、それがわたしの「いまなぜ南方熊楠なのか」という問いに対する答えと言えます。
たとえばですね、南方熊楠はとても男らしい風貌をされていますが、モノゴトを見るスパンが普通の男性と違います。普通の男性は一世一代の成功をめざす。けれど、南方熊楠はもっと先を見ていました。たとえば、エコロジー活動(環境保全活動)に奮闘されます。自分がいま生きているあいだだけよければいいという考え方ではなく、もっとずっと先の命というものがあり続けてほしいという考え方です。鶴見和子氏は「熊楠はオンナだ!」とおっしゃってましたね。
鶴見和子:「男一代」というでしょう。ほんとに一代のことを考えて、一生懸命、権力闘争をやったりしてるわけ、女から見ると、お気の毒さまという感じでもしないではないわね。もうちょっとゆったりかまえて、自分が死んだ後どうなるか、そこに希望が持てないかな、と考えるのよ。女と男は考え方のスパンが違うんじゃないかと思うの。...そういう意味で南方熊楠は男だったのか、女だったのか。*1
モノゴトを見るスパンが長い。もっと先をみている。そして、予測するのが科学の目的だといわれていた時代に、南方熊楠は、偶然と必然のの両方の要素を見ない限り、社会現象というか、人間の世界のことは記述できないと主張したのです。彼の思想は未来のパラダイム転換に向けて、意義が大きいと言えるでしょう。
知られざる未来へ向けて社会化する
では、これからの知られざる未来へ向けてわたしたちが社会化するにはどうしたらよいのでしょうか。
未来を予測しつつも、予測不可能なことにも対応する力を身につけることが今後大切になってくると思います。つまり、”必然〝と〝偶然〝の両方の要素が重要です。この偶然と必然の要素をモデル化したのが「南方曼荼羅」なわけです。
プリンストン大学の名誉教授であったバリバリの近代化論者のリーヴィー(Levy, Marion)は、未来は必然的にこうなるであろうという仮設をたてながら、けれど近代化の未来は"unknown"であると言っていると鶴見和子は述べています。*2
昔はかならずこのような社会が続くから、このように育てるということがわかっていましたが、今はもうそうならないかもしれないわけです。たとえば、高学歴で大企業に勤めると安泰だから、勉強できる子に育てよう!と言っても、いまはそんな時代ではなくなりました。終身雇用という言葉はもはや死語です。だからといって、勉強しなくても良いというわけではありません。勉強する姿勢は必然的に大事、けれど予測不可能なことも起こるわけです。だから、子どもを育てるにあたっては、多様な未来に向けて、柔軟性をもって、その場その場で自分の頭で考えて対応できる、そのような育て方にしなければならないとリーヴィーは言っています。彼は近代化論者ですから、近代化システムをがっちり組むけれども、それだけではないのだと、偶然性の要素の大切さも説いていたのです。
南方曼荼羅の図
では、その南方曼荼羅の図を見てみましょう。
画像出典:http://www.aikis.or.jp/~kumagusu/mandala.html
【南方曼荼羅図】
なんや、コレ。脳の断面図みたい、なんて言わないでくださいね。
直線の動きは必然性を表します。つまり必然というのは、自分がこういう方向に行こうと決めて行く、ところが途中でまたく思いもよらないこととの出会いが起こって、ここへ行くつもりが結局曲がっていく。偶然によって、曲線になるわけですね。
直線=必然
曲線=偶然
と、山田慶兒さんがこの図を見ておっしゃっています*3
この南方曼荼羅で非常に大事なのは「萃点」(すいてん)だと鶴見和子は言います。
南方曼荼羅の中で非常に大事なのは「萃点」だと思う。この萃点は中心ではないの。中心にあると命令することになる、天皇制みたいになる。そこですべての人々が出会う出会いの場、交差点みたいなものなのね。そして非常に異なるものがお互いにそこで交流することによって、あるいはぶつかることによって影響を与えあう場ーそれが萃点なの。もともとの曼荼羅と南方の考えた曼荼羅と、その違いは萃点を設定したところにあると私は思っているの。それが、私たちがこれから考えていくコンセプトとして非常に重要だと思っている。*4
萃点はちなみにこの図で「イ」と記されている箇所です。
”萃点”というのは、南方の造語ですが、すべての人々が出会う出会いの場、非常に異なるものがお互いにそこで交流することによて影響を与える場ー「萃点」。この概念はとてもクリエイティブです。
中沢新一氏と河合隼雄先生は対談で以下のように一般的な曼荼羅について話しておられます。特に南方曼荼羅について話してらっしゃるわけではないですが、この動きをイメージすると、わかりやすいかもしれませんね。
中沢:曼荼羅の内部では、一人ひとりの、どんな細部に潜んでいる小さな神さまも、それぞれが勝手に動いています。しかしその一人ひとりの動きは、ただちに全体につながっていきますから、勝手に動きながら、真ん中にいる大日如来の意図とシンクロ二シティの関係で結ばれていることになります。
河合:ただシンクロニシティーで結ばれているところが非常にわかりにくい。
中沢:勝手に動きながら、相互の意思疎通ができている、そういう動き方ですね。ライプニッツなら予定調和というところです。 *5
南方曼荼羅では、大日如来が真ん中にいるのではなく、萃点があるわけですが。
ちなみにこの本です。おもしろい、オススメです。
では、次回、続きを書きます。
お楽しみに!
んじゃねー。