Misakiの曼荼羅ブログ

人間と自然、日本と世界、地球と地域、女と男などの臨界点を見据えながら、日々の出来事を綴るブログ

人間にとって「働く」とはどういうことか?

「人間にとって働くことってどういうことだろう?」ここ最近、このテーマについて考えることが多くなりました。

 AIやITはこれから更にどんどん先進するでしょう。未来世界はこれからどうなっていくのだろう。私はAIやITの進歩にはワクワクしています。また昨今、新聞を開けば、「働き方改革」についての記事が載っていたりしますし、働きかたに関する様々なオリジナリティ溢れる本もたくさん出版されています。

f:id:glocalmisaki:20180220183459j:plain

メソポタミアの遺跡 働く人
 障がい者の母になって

 先日、次男が通う特別支援学校で、将来の進路に関しての勉強会があったので参加してきました。障がいがあったとしても、障がいの程度や個人の能力は様々ですから、学校卒業後の進路先は当然様々です。

 大きく分けると、二つ。福祉就労と企業就労に分類されます。福祉就労にも、生活介護(労働的な活動をしない)、就労継続支援B型、A型、就労移行支援事業所などに分類されます。もちろん息子のような重度のタイプには現実的には企業就労は難しいですし、就労継続支援型も難しいと予想されます。労働活動を伴わない生活介護事業所に通所することになるでしょうが、たとえどんなに重度の障がい者であったとしても、「働く」喜びを感じたいのではないかと、そんな息子を抱える母はそう想像します。最近では、いわゆる労働的な活動を主にしない”生活介護事業所”でも働く喜びを感じてもらえるように取り組む事業所も見られるようになってきたと先生が勉強会で話しておられ、時代が変わって来たのだなと感じています。

 先生の説明を拝聴しながら、ふと考えたのは、「働く(はたらく)」ことってこれからどういう風になっていくんだろう?ということでした。障がいがあってもなくても、人は誰もが(1)自分も働きたい、(2)無用な存在ではなく、有用な存在と思われたい、(3)みんなと一緒に暮したい、(4)楽しく生きたいという願いがあるのではないでしょうか。

 ヤマト福祉財団理事長であった小倉昌男さんは、「日本の国は障害者にとて住み難い国である」と著書「福祉を変える経営」で述べておられます。15年近く、障がい児を育て来た私も同じように実感・体感しています。日本では、とかく障がい者が無用な存在と見られがちなのが現実です。例をあげれば、国家予算で障害者への不妊手術を強制した旧優生保護法(1948~96年)。そして、2016年の相模原障害者施設殺傷事件。これは戦後最悪の大量殺人事件でした。議論は色々ありましたが、ご遺族の方が被害者の名前を公表しない理由として、「日本では、全ての命はその存在だけで価値があるという考え方が当たり前ではなく、優生思想が根強いため」と述べた気持ちは私には痛いほど分かります。

 

二つの目を持つこと

 ですから、当たり前のように「働くこと」=仕事=役に立つこと、貢献することという当然の定義を聞くたび、何か複雑な気持ちに駆られるのです。まぁ、障がい者の母ですから、社会からは一般的に役に立たない人間として見られてきているわけですから、複雑な気持ちになるんですね。そもそも、何をもって役に立っているのかがあいまいにされていることが多いですし、役に立たないとされている人間は本当に役に立っていないのか、その指標そのものが存在していません。すぐに役に立つことばかり求める昨今の風潮にも非常に違和感を覚えます。

 なぜなら、”効率”の対極線上にあるのは、”想像力”です。無駄を重ね、その無駄と無駄をつなぐところにストーリーが生まれて来ます。それが人間味につながってきます。ますますAIやITが進みますから、物事をあまりにも効率的・合理的にしか見れない人、生産性至上主義者は、人間として働くことの価値をどのように提供していくのかが課題になっていくはずです。

 人間にはおそらく2種類のタイプがあると考えます。一つは、周りの人々やものごとをささっとコンパクトに分析し、「あれはこうだよ」「これはああだよ」みたいな明確な結論を短時間のうちに出す人。評論家かジャーナリストタイプですね。もう一つは、「あれはこう」と言う結論があったとしても、「ちょっと待って」と考え直す人。いろんな方向から眺めて、検証し、それでも白黒と言う判断を出さないタイプ。後者は小説家タイプかもしれません。どちらが良いか悪いかではないです。ただ、物ごとは二つの目で見て初めて、立体的に具体的に見えてきます。私は障がい児を育てるまでは前者で、そしてお母さんになってからは後者の目ももち、二つの目でものごとを見るようになりました。

 独身時代は、人事・組織専門の外資コンサルティング会社で勤めていたり、外資系メーカーで人事の仕事にも携わっていたので、私は当時はいわゆる、"pay for performance"、成果主義の考えで、いかに効率的であるかとか、貢献度は?とか、生産性の向上の必要性を感じていました。企業勤めでしたし、当然のことでした。だから、前述したことを昔の私を知っている人が聞いたら、「あのお前が言うか!」と怒られそうです。でも人生には摩訶不思議なことが起こります。それを教えてくれたのが息子で、その偶然と必然の掛け合わせに感動があるのです。

 息子には多くの気づきを与えてもらいました。何をするにも人の何倍もかかる、効率や生産性の対極線上にいて、電車に親子で乗ればひんやりと白い目で見られることも多々あり、切ない思いもしてきました。けれども、昔企業に勤めていた頃、効率性や生産性を大切に考えていた私に、超・非生産的な子供を与えていただいたことは、非常に意味深く、今や神さまには感謝しています。私は弱い人の気持ちもやっと理解できるようになったし、息子には多くのギフトをもらいました。 

はたはたを楽にさせるから「はたらく」

 人間にとって、「働く(はたらく)」とは何だろう?

未だ、答えは出ていません。子どもの頃は、親から「はたはたを楽させる」ことが「はたらく」ことと語呂合わせのようなことを教えてもらいました。現代の働くは「労働」です。マルクスの分析で言うと商品としての労働です。一定の時間を事業体に売ることによって、賃金と言う報酬を得る。つまり売り買いの関係にあるのが労働です。私はそれを決して否定をしていない、と言うかできません。それで実際に家族が生活させて頂いているわけですから。

 けれども、「はたはたを楽させる」ことは、そういった労働とは明らかに異質なものです。では、労働と全く違うのかと言うとそうでもないです。現在の日本は労働があまりにも重要視されすぎで、働かない者は遊んでいる、役に立たない人だと言われます。そうすると、家庭の主婦でも働いていないことになり、子供なんてなおさらそうです。病人もそうです。老人もそうです。

 「はたはたを楽させる」ことが」「働く」なら、こういった見方は一変します。役に立てない人など本来はいないのです。たとえば、主婦でも家族のために配慮を心がけていたら、立派に働いていることになるし、子どもでもお手伝いをして、お母さんを楽させてあげていたら働いていることになります。病人も痛い、辛いと不足している人が少しでも介護や看護している人に「ありがとう」とねぎらいの言葉をかけたら「働いている」ことになるかと思います。つらいけど・・・。

 「働く」と言うことが、労働であり、務む、稼ぐ、勤しむ、励む、成すなどの意味のみであれば、世の中には働けないし、役に立てない人も大勢いるかもしれませんが、働くの意味を少し見方を変えるだけで、未来世界がひらけてくるような気がします。

 

これからは新しいセンス(感性)が必要になってくることでしょう。それについてはまた次回。

 

今日も「美咲の曼荼羅ブログ」にきてくれてありがとう!