Misakiの曼荼羅ブログ

人間と自然、日本と世界、地球と地域、女と男などの臨界点を見据えながら、日々の出来事を綴るブログ

書くことを通じて考えよう

こんにちは、

美咲です。ブログを始めて3ヶ月は経つのに、1ヶ月に1投稿しかしていない美咲です。このブログのことを忘れているわけではないのです。むしろ、毎日自分自身と対話しているのに、それをどう言語化していいか分からない。間違えたことを言ったりしてはいないのだろか、人を傷つけたりはしていないだろうかと思うと、いったんネットに投稿すると取り返しがつかないのではと慎重になっていたわけです。そう、”考えてから、書いていた”わけですね。そんななか、河合隼雄先生のエッセイに面白い言葉を見つけました。目からウロコが落ちましたので、今日はその言葉をシェアしたいと思います♪

「推敲は文章を殺す」*1

  

河合隼雄先生:画像引用サイト:http://www.kyotomm.jp/HP/newsTopicsImage/kancho_koen01.jpg

ちなみにこの本です↓オススメ。

 

”不完全なもののほうが生き生きとしている”

 ”推敲は文章を殺す”ってどういうことなの?と、最初この本でこの言葉を目にしたとき、驚きました。ここで河合隼雄先生おっしゃりたいことは、推敲にしろ添削にしろ、そういう行為はどうしても「完全」なものを狙うということ。けれど「不完全」なもののほうが生き生きとしており、訴える力をもっていることが多いということなのでした。河合隼雄先生曰く、”「完全」を狙って努力を続けているうちに生命力を失ってしまう”とのことです*2

「近ごろの学生は、ロクな文章も書けない」という嘆きを、多くの大学教官が発する。しかし、添削によって「完全」を押しつけ、学生の文章どころか、その個性まで殺していないだろうか。そんなことをするよりは、学生の書いた「不完全な文」のなかに、個性を見出し、それを伸ばすことを考えてこそ教師と言えるのではなかろうか。推敲や添削によって、文章の不完全さが消えていくとき、それは「正しい」と言える。しかし、そこで死んでいったものが何か、を言うのは非常に難しい。このために、多くの人が「正しい」ほうに順応していき、結果的には自分の個性を殺すのに努力を払うことになる。『「出会い」の不思議』河合隼雄創元こころ文庫 p25)

 ここまで、読んでハッとあることを思い出しました。実は父が昔々ハワイ大学を卒業し、UCLAの大学院に留学していたころ、同時に日本からUCLAの大学院に留学に来られていたのが河合隼雄先生でした。父よりずっと年上の河合先生はそれまで奈良の高校で数学の先生をそれまでにされていたそうです。その頃からの親交があったので、父が原稿や講演やフォーラムを頼んでもいつも快く引き受けてくださったそうです。あるとき河合先生がこんなことを父に漏らしたことがあったそうです。「わしな〜、特技があんねん。編集者が言う文字数の原稿を一度でピタっとその文字数で書くことができんねん。そんな特技があんねん(笑)」。わたしはその話を聞いて、「河合先生は数学科のご出身やから計算しながら原稿書かれたんやなぁ。村上春樹でさえ、何回も推敲するのに、しかしほんまに天才やねんなぁ」と心の中で感心していたのでした。ところが、この本のエッセイを読み、なんとなくその謎がとけたような気がしたのです。

”推敲は文章を殺す”という言葉は、実は河合先生が加藤典洋先生の「言語表現法講義」(岩波書店)にあった文を短くしたものだそうです。

 

加藤典洋さん:画像引用サイト: http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32550

 

言語表現法講義 (岩波テキストブックス)

言語表現法講義 (岩波テキストブックス)

 

 もとの文を引用してみましょう。

「推敲というのはー添削もそうですがー悪くすると、この不完全さを壊し、文章を殺すんですね」*3

 ”悪くすると”と、ここで加藤先生が述べられているのがポイントだそうで、推敲のすべてが文章を殺すわけではないということです。かの夏目漱石も「推敲する暇があったら、次の作品を書く」と言っていたそうですね。

 

書くことを通じて考える

 これまでのわたしは、読んだり考えたり、自分の中で自分と対話したことを、考えて考え抜いて書いていたわけですね。でも、視点を変えて、”書くことを通じて考える”というスタンスをもつと、もっと自由になれるような気がしました。そういう意味で河合隼雄先生の”推敲は文章を殺す”はインパクトのある見出しではありましたが、発想の転換になり、もう少しブログの投稿を頻繁にできるのではないかと思います(笑)。

”書く”ということはどういうことか。それは人それぞれですし、目的もそれぞれです。わたしはそれぞれで良い、と思うわけです。わたしの場合には、書くということは、自分と出会う、向き合う場なんですね。そこで書くというのは、知識を伝えるというだけでなく、むしろ考える過程ととらえたら、もっと楽に文章を書けるなぁと思いました。なお加藤典洋さんは、「感動そのものを書くことはできない」と言います。「できるのは、その感動のなかで何かを書くことだけだ」と。深いですねー。と、こんな風に締めてはいけないようです(笑)加藤先生によると、文章は終わりが大切とのこと。終わりの美辞麗句は文章を台無しにすると言うことなのです。”では、またねー♪”もダメかしら....(汗)どう締めたらいいのかしら。とりあえず、今立っているところから思いを発信する。完全でなくてもいいじゃないか!

では、またねー♪(笑)

*1:1『「出会い」の不思議』河合隼雄創元こころ文庫 p24

*2:2『「出会い」の不思議』河合隼雄創元こころ文庫 p25

*3:3「言語表現法講義」(岩波書店加藤典洋