Misakiの曼荼羅ブログ

人間と自然、日本と世界、地球と地域、女と男などの臨界点を見据えながら、日々の出来事を綴るブログ

河合隼雄先生が語った二つの宇宙

美咲です。

27年前の国際シンポジウム「心の宇宙・宇宙の心」で、河合隼雄先生は”宇宙に心はあるか”という問いかけに対し、このように答えられました。*1

 私は、宇宙に心があるか、と問うよりも先に「人間に心はあるか」という問題が先だと思っています。人間に心があると信じている人があれば、私は見せてくださいといいますが、誰も見せられないと思います。空気は見えませんが存在しています。空気には重さがあるから計れるのです。しかし心に重さがあるでしょうか。人間が死んだ時、体重が少し減少したら心の重さが計れるでしょうが、それはまず無理でしょう。心は重さがありません。その限りにおいては存在していないのです。つまり質量から考えれば存在していないのに、我々は心が存在していると考えています。それはどうしてでしょうか。それはそう考えなければ不便でしかたがないからです。

 我々はよく「私の心が通じない」「あなたの心がわかります」とか言います。我々はたとえばコンラッド氏から月に行った話を聞き、そして感動する時、我々にも心があり、コンラッドさんにも心があり、双方ともに心に通じあった、よく分かった、納得したと考えます。その時、我々は心という言葉を使います。そういう使い方をした時に心の重さを示せ、なんて馬鹿なことは誰も言いません。その意味で我々は心があると考えた方が都合がよいのではないでしょうか。私は男性原理と女性原理の統合ということを言ってますが、心は、男性原理的に、重さがあるか、質量があるか、存在するのか存在しないのか、と分けたりして理解できるものではないと思うのです。コンラッド氏は全体的な統合性をもったsome-beingという表現をされましたが、それを宇宙の心と呼んでもよいのではないかと思っています。つまり宇宙も一つの存在をもって我々に語りかけてくれる、私の心がそれを受けとめるならば、それを宇宙の心と呼びたい人は呼んでもよいのではないかと私は思います。(河合隼雄「G-TEN 心の宇宙・宇宙の心より」)*2

結論から述べてしまったようですが、私はこの文章を何度も反芻しています。この奥には現代の社会に対する深い提言があるのです。さて、ここで河合隼雄先生は、人間が世界を見る時に二種類の見方があるということをシンポジウムで話されました。

一つ目の見方は、世界を観察し、分析する見方です。物体の存在や物体同士の関係を観察することです。たとえば物理学的な原理の説明やニュートン万有引力の法則とかです。そのような見方をすることで、自然科学が発達しました。ですから人間は月までの距離や太陽と地球の位置関係までも正確に測ることができるようになりました。

二つ目の見方として、”私はどうしてこの世に存在してるのか、私にとって世界はどうであるのか”、という世界の見方があります。この見方には”私”という視点、概念が入っています。

 

天国はどこにある?

河合隼雄先生はここで、小学校5年生の女の子の話のエピソードをされました。ある時、その女の子は河合先生に太陽は真っ赤に燃える球だが、その向こうはどうなっているかと尋ねます。河合先生は、その向こうには太陽系があり、いろいろな惑星が太陽の周りを回っていると説明しました。すると、女の子は、その向こうには何があるかと先生に聞きます。先生はその向こうには銀河系があると答えます。すると彼女はその話をじっと聞きながら、銀河の向こうには何があるの?と聞くのです。河合先生は銀河の向こうには銀河と同じような星の集まりがあると説明します。けれども、どうやらそういうことはその女の子はどうも知っているらしいのです。一通り話をさせてから、女の子はパッと表情を変えて、「おじさん、では、天国はどこにあるの」と聞いたのです。河合先生はその時にハッと気がついたそうです。その女の子のお母さんは一週間前に亡くなっていたのです。女の子が悲しんでいたときに周りの人が、お母さんは天国にいてあなたを見ているよと言って慰めていたのです。彼女はそれはどうもおかしいと感じたんじゃないかと。はたしてそれは本当だろうか。けれども大体の大人は真実の話をいやがる傾向があります。彼女はいやがらないで答えてくれる大人を捜しており、河合先生がどうやらその大人に選ばれたようなのです。女の子が偉かったところは最初から天国の話をしなかったというところです。大人はゴマカシますから。彼女は、最初に銀河系の話を先生にさせてから、天国の話に持っていったそうなのです。この女の子にとっては、実に真剣な質問であり、決してふざけていたわけではありません。

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宇宙には二つある

そこで河合先生はグッと詰まったそうなのですが、そこで感じられたのがさきほど述べたように人間が世界を見るときには2種類の見方があるということなのです。この母親を亡くした女の子の場合、どうして自分の母親が死んだのかと尋ねているのです。自然科学では、人間は心臓が停止し、血液の循環が止まり、死を迎えると答えてくれます。けれども、女の子が聞きたいのは、なぜ、自分の母親が死んだのか、他の母親ではなく、もっと言うとなぜ自分が死ぬのではなくて、母親なのか、なぜ自分が小学5年生の時に死なねばならなかったかということなのです。この問いに対して自然科学は答えることはできません。

河合隼雄先生が話された二つの宇宙とは、

・観察して分かる宇宙=”スペース・サイエンス”としての宇宙と、

・「私にとって」という意味の宇宙、つまり”私の生きてる宇宙”、です。

「私」の入った宇宙には、必然的に死を含むということなのです。私も死ぬし、母親も死ぬわけです。

このようにとても個人的な、そして切実な問題を入れると、宇宙は客観的な科学的な説明だけで説明しきれるものではなくなるのです。*3

単純にいうと、理科系と文科系のものの見方があるということですね。

私としては、理科系の学問・技術ばかりどんどん進歩して、文科系の方も進歩しなければ、バランスが取れなくなるから大変になってくるのではと心配です。

宗教学者山折哲雄先生によると、日本人は人が死ぬと山に帰ると考えていたそうです。高い山の頂上付近には浄土の峰と呼ばれるところがあり、少し下には地獄谷があり横には河原があります。これは日本の三点セットと言われたそうです。

昔の人は現代人が考えると不合理に見える天国とか地獄という世界を考えて、宇宙をとらえていたようですね。昔の人の宇宙観には天国や地獄があったわけで、「私」の死をも入れこんだ宇宙観や視点も今の時代も必要でしょう。

宇宙飛行士であったコンラッド氏は軽々しく「神」という表現は使われませんでした。彼はあくまで科学者であったので、実際に見ていないものは言われないわけですが、"some-being"という表現はされたのです。つまり何らかの存在が全体的秩序の中に有るという意味です。河合隼雄先生はそのことにも触れ、印象に残ったと話されました。それは全体を分けてゆく方向とは違う方向なのです。

そんなことを考えていると、なぜ私は生きているのか、人生は私に何を期待しているのか、夜空を眺めつつ、宇宙について考える妙齢の私です。

んじゃねー。

 

 

*1:『G-TEN No.57 心の宇宙・宇宙の心』p29-39 (注)このシンポジウムをまとめたG-TENという冊子はもう絶版になっていますので、少し長めに引用します。引用に関してはすでに、当時の編集長に許可を得ています。

*2:『G-TEN No.57 心の宇宙・宇宙の心』p38-39

*3:G-TEN No57 心の宇宙・宇宙の心 p31